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能 俊寛

[2023.05.06]

R4年11月銀座観世能楽堂で俊寛を観てきました。これで2度目で1度目は期待が大きくて何だかよく分からず終いでした(当方の理解が足りないか)が今回は粛々と進んで行く物語に引き込まれました。まさにNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で平家滅亡を描いており関連する歴史上の事件として地味ですがそれに連なる話として興味深く観ていました。  
平家が最高の栄華を誇る少し前1177年平家の転覆を計る鹿ヶ谷の陰謀が起き、1180年には以仁王の挙兵が起きました。朝廷の天上人の大多数を占めることになった平家への反感不満が消えることなくずっと燻っていたのでしょう。さらに比叡山との軋轢が後白河上皇にあり平氏に助力を求めました。平清盛は比叡山との関係は悪くはなかったのですが義理の妹の平慈子が嫁いでおり無碍に断れなかったのでしょう(後鳥羽上皇と平清盛の関係は慈子を介し姻戚関係にありますが呉越同舟、心底互いに嫌っていたようですがある目的のためにはくっつくこともあるのは世の常で敵の敵は味方)。清盛打倒のクーデターの陰謀は密告により清盛側に知られることとなり延暦寺に向けていた兵をその相談のため集まっていた俊寛の鹿ヶ谷の山荘を向け急襲し捕らえてしまいます。殺害された者もいたようです。法勝寺の執行俊寛、藤原成経、平康頼は鹿児島沖鬼界ヶ島(硫黄島)という火山島に配流されてしまいます。成経と康頼は熊野権現を信仰しており京に帰れたなら熊野詣を発願し卒塔婆を書き海に流していたと言います。俊寛は一説によれば全くの不信仰の人だったと、平家物語は記しています。ある日そのうちの一本が安芸の厳島神社に流れ着きそれを見た清盛は信心の深さに心打たれ、また、高倉天皇の中宮徳子の懐妊・安産祈願もあり国々の罪人の恩赦をすることにしたのでした。翌1178年赦免使が都からやってきます。そして大赦の報を伝えるのですが赦免状には俊寛の名前だけ書かれていないのです。俊寛は目を皿のように赦免状をくまなく見るのですがそこには鬼界ヶ島から成経、康頼を連れ帰り、俊寛は島に留め置けとあったのでした。絶望のあまり俊寛は言葉を失います。成経、康頼の‘京に帰ったら近い内に赦しが出るようにとりなすから’との慰めの言葉も全く届きません。そうこうしているうちに出航の時間となり赦しの出た二人は船に乗り込みます。何とか乗せていってもらいたい俊寛は使いのものに頼むのですか勿論できません。それでも艫綱を掴んで離さない俊寛を放免使は無惨にも打ち捨てるのでした。乘せていってくれ、と叫ぶ俊寛。その声は次第に遠く波の音に消され船上の二人にはもう届きません。後には白い船の航跡だけが残されたのでした。都での華やかな生活から絶海の孤島での耐乏生活から救われると思った希望がガラガラと一転絶望に変わってしまう絶望感とは如何許のものだったのだろうか。想像するにあまりあります。俊寛は平家打倒の咎で流罪に処せられた絶望。平家物語によれば何年後かに訪れた下僕だった有王から妻子の死を知らされた時の絶望。平家物語の記述含め真偽含め諸説はあるものの俊寛という能は人間の一生の救いようのない絶望を淡々と描いています。何年か前夏休みに旅行した際岡崎公園付近のすぐ近くだった法勝寺のあった界隈は850年前と同じ暑い京都の風が吹いていました。能 俊寛は派手さに流されない能の動きと後方での抑制された鼓、笛、謡と相俟ってとても心に残った能でした。

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