人はなぜ仕事をするのか
人は何のために仕事するのか
それは高校2年生の時のことだった。倫理社会のS先生がある授業の時「君たちはなぜ仕事をすると思うか」と質問されたことがあった。授業の他の内容はおぼえていないのに何故かこの時のことはずっと頭の片隅に残っていた。西洋の哲学の授業の流れの中であり哲学者の誰かがいったのだろうとしか思わなかった。そして、生意気盛りの高校生のことだから”当たり前のこときくなあ、生きていくための生活の糧を得るために必要だから”位にしか思わなかった。だが、
先生の答えはこうだった。働くとは即ち
“人格の陶冶”ということである
ヘーゲルの言葉だったように記憶していたが定かではない。
教育は人格を陶冶する、ということは分かる。では本当に
仕事は人格を陶冶するのか。
高校を卒業してからもこの端的な言葉は私の頭の何処か片隅に残っていた。折りに触れ思い出すことはあってもついぞ深く考えたことはなかった。勤務医でいたときも考えることもなかったが開業し従業員を使うようになりこのことが何となく実感したのは10年ほど前のことだ。職員の考え方・行動原理・仕事の仕方といったものは経営者である自分自身の人間性の投射・投影ではないかと考えるに至ったのだ。
京セラの稲盛和夫さんの「働き方」という本の中でこれと同じことが書いてあるのに驚いた。それによればドイツ領事の人との対談があった時、このような話を聞いたという「労働の意義は、業績の追求のみにあるのではなく、個人の内的完成にこそある」働くということの最大の目的は、労働に従事する私たち自身の心を練磨し、人間性を高めることにある。
「働くことが、人をつくる」すなわち日々の仕事にしっかりと励むことによって、自己を確立し、人間的な完成に近づいていく。
”仕事の完成より人格の完成”とは古いギリシャの言葉であるらしいが西洋哲学の根底にはこういった考え方が流れているのだろう。
日本にも同じような言葉があった。有名な日本海軍司令長官山本五十六の言葉だ。
人に教えるということ
「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」
「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」
おまけ “男の修行”
「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」
まだまだ自分の人格の完成、陶冶はむつかしいな。